言い訳と説明の境

本文とは余り関係ありませんが、
交流のある道場の先生の一人が、新しい仕事のため台湾に永久帰国することになった。
そのまさに飛行機の便の前夜に、わざわざ2時間ばかりかかる道のりをうちの道場に
最後に稽古に来られた。
稽古をつけていただいていてしみじみ思いました。
この稽古を私は忘れないだろう。
剣を学ぶものにとって、剣を交わすこと以上の交流はない。
酒を酌み交わすのも悪くはないけど、
剣に比べたらおまけみたいなものだ。
酒の大好きな私が言うんだから間違いない。



さて、今日の本題は、行動を文化に合わせることについて。
しばらく前にも書いたように思うが、このお題は私の今の環境にいつもある事柄なので、
何度でも考えるし、何度でも書く。

アメリカ人はとか日本人はという表現が出てきますが、
これはもちろん皆そうだということではなくて、平均的にはという話で、便宜上の表現です。
アメリカという国は広いだけではなくいろんな人種、文化が一緒くたに住んでいるところなので、
住めば住むほど「アメリカでは」という言い方をすることには抵抗を感じるようになっていきます。
日本で読む「アメリカでは」という文章は、眉につばつけて読んだほうがいいですよ。
実は住んだこともないひとが書いたものだったりするから。
(数ヶ月「留学」とかね、住んだうちに入らないから。その人個人にとっての豊かな経験にはなりうるが、その立場の人の言う「アメリカでは」は大風呂敷だと思う。)

ま、そういうことを言えば私の「道場では」もそんなようなものなので、その程度に思って読んでください。

アメリカ人は大抵、色んなことをよく説明します。
上手く説明できているかどうかは人によって色々だし、
「説明」の九割くらいが単なる自己弁護のような人もいるが、
とにかく頻度としては多い。
全体的にそういう人で構成されているグループに説明をしない人がいると、
あの人はなんだかよくわからないと思われやすい。

今職場で色々怪しまれている人がいる。
もともとコミュニケーションをほとんどとらない。
普段の会話にほとんど参加しないで、参加するときは不平不満ばかりだから、
室内の誰も彼女を本当に「知っている」気がしない。
その下地があった上に、このごろ他のメンバーならあらかじめ説明する種類のことを
盗むような態度でこそこそやっているものだから、怪しみと反感を買っている。
ここ数日余りにもあらわになってきたので彼女も怪しまれていることに気付いていそうなものだが、
やっぱり説明はしない。
ほとんど誰とも口をきかないで黙って帰っていく。

彼女についての「よくわからない」という話題は、
最後には「文化の問題かもしれない」ところに行き着いて、謎のまま終わる。
その人種の人が他に身近にいないので、あれが普通なのかどうか誰にもわからない。

道場に場所を移す。
道場では、何か先生や先輩から注意されたときに発するべき言葉は
「はい」
である。
武道経験のないアメリカ人は、最初はごちゃごちゃ説明しているが、
数年武道を学ぶうちに大抵その態度を学ぶ。
道場において沢山の言葉を返すことは、大抵「説明」ではなくて「言い訳」と取られる。

余談だが、この間アメリカ人の先輩に、今の私のやり方よりもレベルの高いことを教えてもらい、それにてこずっていたら先輩が
「俺が何かやれって言っても、やってみて無理だと思ったらハイだけ言って前の通りやってればいいんだよ」と言ったので、この人は日本語における「はい」の機微をわかっているなと思っておかしくなった。


信頼関係の成り立ち方が違うのではないかと思うのだ。
アメリカの社会では、言葉を使うことによって信頼関係を増し、
日本の社会では必ずしも言葉はその方向に動かない。

怪しい同僚の件があって、しばしば考えることをまた掘り返してみたのだが、
私は自然と職場ではアメリカ型、道場では日本型のコミュニケーション法になる。

面白いことに、武道経験の少しはある日本人なのに、剣道を始めたばかりのときは外のアメリカ社会でやるみたいに色々いちいち説明していた。
稽古を積むうちに、初心者として説明は不要だ、黙って竹刀を振ればいいのだと思うようになった。
どうしてできていないのか言ってもしょうがない、できてないもんはできてないんだから。
稽古できる時間を無駄に費やすだけだ。

道場で言葉を発する意味のあるのは先生のみ。

私は、道場でも運営部分はアメリカ型のコミュニケーションでいいと思っている。
実際的なことがらは明文化されているほうがすっきりと公平でよい。
うちの先生は台湾人だが、道場のさまざまな側面においてアジア的なところとアメリカに適合したところを上手くバランスを取っていると、みていていつも思う。

言葉を使うことが核になっているような仕事だから当たり前といえば当たり前だが、私は職場では朝から晩まで説明をしている。
これは仕事をしていく中で、与える情報は多いほうが相手との仕事はスムーズに行くことを体得するうちにそうなったのだ。明らかにしない情報が多いほど相手は不安にもなる。
仕事で体得した技だが、業務以外の同僚とのコミュニケーションもそのタイプになっている。

件の同僚も、もしかしたら自分の文化の中ではもっと私などには理解の及ばないことになっていて、
職場ではそれなりに文化に合わせているのかもしれない。
機能するレベルに到達してないだけで。
どこに行っても異文化論は、どちらの文化も知っている橋渡しのできる人がいないと謎がとけない。
母国で、または外国でも母国からの移民ばかりと接して暮らしているならともかく、
外国の文化の中で本当に暮らそうとするなら、行動で歩み寄らなければうまくいかない。
特にアメリカの文化の中では、判ってもらおうとすることは鍵となる行動のひとつだ。

移民を受け入れる側は歩み寄らなくていい、という話ではない。
けれども自分がなんとかできるのは自分のほうの行動だけだからね。


小声:私は道場以外の日本の社会においてアメリカ型をやるので、どうもぎくしゃくするんだが。






剣はこころなり

うちの道場には道場訓はない。

稽古の前後に黙想するとき、私は時々行くほかの道場で道場訓として使われているので覚えた「剣は心なり」を心の中で唱える。

剣はこころなり。
こころ正しければその剣正し。
こころ正からざれば、その剣また正しからず。
剣を学ばんとするものは
すべからくそのこころを学べ。

調べると細部はちょっとずつ違ったバージョンが出てくるが、もとになっているのは島田虎之助の有名な言葉だ。

稽古の前に心構えを正す。
稽古の後に、今日の稽古での心構えを振り返る。
今日はこころ正しくできたな、と思うこともあるし、
残念に思うこともある。
残念に思うときは特に、次の稽古の心構えを正しくする。

人のことではない。
あくまで自分の心構えの問題だ、というところに
焦点を置きなおすことができるのがいい。



審査が近い。
先生は、考え抜かれた手順で大掃除をするみたいに稽古をする。

昨日の出稽古の後、私に「手首の使い方の練習をしなさい」といわれた。
「はい。家で練習します。」
「ナーバスになってる?」
「いえ、そうでもありません。」
後で、まるで自信満々みたいな言い方だったかなと思った。
本当はそうではなくて、
私は自分のできる限りをするだけで、
通っても落ちても、それが今の実力だと思う、ということだったんだけれど。

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剣祐

Author:剣祐
剣の修行中。

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